【日ユ同姐論】旧約聖書から秦帝国、徐福から物部氏まで
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日本とユダヤに普通では考えられない類似性を見ることが出来るとして生まれた「日ユ同姐論」。
では具体的に、どのような経緯で日本に彼らがたどり着いたのか?
カギとなるのは、イスラエル12氏族です。
まずは、非常に簡単に聖書によるイスラエルの民(古代ユダヤ人)たちの記述を説明します。
(非常にアバウトですのであしからず。)
紀元前1900年ごろ、古代メソポタミア地域に住んでいたイスラエル(古代ユダヤ)の民の始祖アブラハムが神の啓示を受け、カナンにて、生活を始めます。
(カナンは地中海・ヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯。カナンは神によりユダヤ人に与えられた地とされる。)
その後、アブラハムの孫、ヤコブが、自らの名をイスラエルに改める。
その後イスラエルは12人の息子をもうけるのですが、その12人の息子たちがイスラエル12氏族の基礎となります。
イスラエルの12人の息子たち(後のイスラエル12氏族)
ルベン
シメオン
ユダ
ダン
ナフタリ
ガド
アシェル
イッサカル
ゼブルン
ベニヤミン
マナセ
エフライム
イスラエルの3番目の息子にラビと言う人がいるのですが、後に祭祀を司る特別な氏族ラビ族となります。
ラビ族は基本12氏族には数えられません。なので、本来は12氏族の他にラビ族という合計13氏族いると覚えておいてください。
また、最後の二人、マナセとエフラムはイスラエルの孫に当たり、息子ではないのですが、後にそれぞれ12氏族の基礎となります。マナセとエフライムはイスラエルの11番目の息子ヨセフと言う人の息子たちです。
11番目の息子の、ヨセフは一族から独立しエジプトの首相となるので、12氏族には入りません。
紀元前1650年ごろ、この11番目の息子ヨセフの計らいにより、一族全員エジプトに移住し、移住先でイスラエル12氏族として繁栄しますが、ヨセフの死後、紀元前1290年ごろ、エジプトはイスラエルの民を奴隷として扱うようになります。
奴隷としての迫害がピークに達したおり、有名なモーセが現れ、イスラエルの民を率いてエジプトを脱出します。
その後、アブラハムが神から授かったとされるカナンの地に戻り、そこでイスラエル王国を作ります。
紀元前925年、王族となったユダ族中心の王政に不満を募らせる形で、イスラエル王国は南のユダ族とベニヤミン族の2氏族と、北のルベン族・シメオン族・ダン族・ナフタリ族・ガド族・アシェル族・イッサカル族・ゼブルン族・マナセ族・エフライム族の10氏族による、南ユダ王国と北イスラエル王国に分裂します。(ちなみに、祭祀を司るラビ族は南に属します。)
その後、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされてしまい、奴隷としてアッシリアに強制連行されるのですが、それ以降イスラエルの10氏族は歴史から消えてしまいます。
南のユダ王国はというと、紀元前587年新バビロニア王国に滅ぼされ、住民はほぼ全員奴隷として連行されます。
旧約聖書でも「バビロン捕囚」の名で語られている
その後アケメネス朝ペルシアに新バビロニアが滅ぼされたとき、奴隷として連行されたイスラエルの民は開放されます。
開放されたイスラエルの民はカナンに戻り、自分たちの王国を再建するのですが、その後ローマ帝国に滅ぼされ、世界各地へまた離散するというわけです。
さて、お察しの通り、この先に消えた10氏族のうちのどれかの氏族が後に日本までたどり着いたと考られている説があり、現在のユダヤ人の間でも、失われた10氏族の一部が日本へ渡ったという考えが根強く残っています。
しかし、公な歴史的記述が一切残っていないので、10氏族の動向について諸説あるのだとは思うのですが、どれも確証は得られていません。
さて世界中へと離散ししたたイスラエルの民の行方として面白い説があります。
その説には、かの中国最初の統一王朝、始皇帝で知られる秦帝国が関わってきます。
秦始皇帝
秦始皇帝は中国戦国時代、秦王として、紀元前221年中国全土を統一し、自ら初代皇帝を名のる人物ですね。
その秦始皇帝の部下に、徐福と言う謎の人物がいます。
どのような人物かと言うと、神仙術(魔術や当時の科学に当たる錬金術など)の使い手で、卓越した神仙術の知識を元に始皇帝からの信頼を得て、権力を欲しいままに手に入れた人物と言われています。
徐福はある時、始皇帝の命を受け、紀元前219年、中国の東の果てに不老不死の妙薬を求め3000人の人員と、五穀の種、その他多くの技術集団を率いて旅立ちます。
しかし、そのまま帰ってくることはなかったと、中国の古代史記「史記」には記してあります。
ここで言う東の果てとは、もちろん日本の事です。
徐福像と『西国三十三ヶ所名所図会』の、徐福渡来の挿絵:一般財団法人 新宮徐福協会
学術的な確証はないものの日本各地には、徐福が上陸したと言われる場所や墓などが各地にあり、また日本で稲作が本格的に行われる様になった時期と徐福の時代は重なるといい、五穀の種と大勢の技術者をもちいて、弥生文化をもたらした可能性があるのだそうです。
古事記では、神武天皇の東方遠征のはるか前に、同じく天から天下った神がすでに国を作っているとあり、その神の末裔とされているのが、古代の豪族物部氏です。
要するに中国から、日本をめざし渡ってきた徐福が、技術力と人員を駆使して物部氏の姐となる国を作ったのではというわけです。
そしてなんと、この徐福は、ユダヤ人であり、日本へと旅立った人々の中にも多数のユダヤ民族がいたのではないかというのです。
徐福が身をおいていた秦帝国自体、漢民族を代表する中国人系の種族だけでなく、その他、多くの人種が建国に携わってたようです。
秦始皇帝と言えば、有名な兵馬俑と言う遺跡があります。
秦始皇帝陵兵馬俑坑
近年、秦始皇帝陵兵馬俑坑で副葬された、労働者の遺骨が多数発見されたのですが、その中にユーラシア西部人の人骨が発見され、DNA鑑定の結果ペルシア人やクルド人など、西アジア民族の特徴が認められたと言います。
実は秦帝国の統治体系は、中国全土の王国にてそれまでにない画期的な体制であり、後に続く歴代の中国帝国はこれに倣うかたちで君臨して行くのですが、この体制とあまりにも似ていると多くのが学者たちが指摘するある王国があるのです。
それは中国大陸の王国ではなく、西アジア地域にあった王国、あのユダ王国を解放へと導いたアケメネス朝ペルシアなのだとか。
アケメネス朝ペルシアにより、新バビロニア王国から開放されたユダ王国由来のユダヤの民は、その後カナンの地へと戻ります。
しかし中にはそのままとどまり、アケメネス朝ペルシアのなかで繁栄したユダヤの民もいたと考えられます。
現に、アケメネス朝ペルシアの王妃エステルはユダヤ人であり、そのことは旧約聖書でも語られています。
つまりユダヤ人はアケメネス朝ペルシア王家の外戚にあたり、王国内で大いに繁栄したことは言うまでも無いかと思います。
旧約聖書「エステル記」に登場するアケメネス朝ペルシアの王妃、エステル
アケメネス朝ペルシアはその後、紀元前330年にマケドニアの王アレキサンダーに滅ぼされます。
秦帝国の前身、中国戦国時代の秦王国は、中国大陸でも最も西に位置した王国であり、オリエントを含む西側地域と直に接する王国だったとか。
アレキサンダー大王が開いたシルクロードを通じて多様な人種が訪れ、その中には無きユダヤ人を含む多くのアケメネス朝ペルシアの民も流れ込み、その後の中国統一と独特の支配体系を確立するのに大きく貢献したというわけです。
そうなると、注目すべきはアケメネス朝ペルシア人であり、秦帝国とユダヤ人を結びつけるのは多少強引じゃないかと思われます。
しかしそこに、徐福と秦始皇帝のルーツが関わってきます。
秦始皇帝の始祖民族は古代中国伝説の皇帝「舜帝」から、その功績により「嬴(えい)」と言う姓を授かります。
一方の徐福は、中国最大の半島である山東半島の斉の国の出身とされていて、秦王国の地域とは正反対の土地の出身となります。
しかし、近年の中国本土の詳細な研究により、徐福の系図をたどるとそのルーツは秦始皇帝と同じく「嬴(えい)」と言う事実が判明したと言います。
そして彼ら嬴民族は、三本足の太陽に住む黒き鳥「金烏」を自分たちの象徴としていたと言います。
日本では、この「金烏」を「八咫烏(ヤタガラス)」と呼びます。
現在、和歌山県熊野三社のシンボルとしても使われる八咫烏
後に「八咫烏(ヤタガラス)」を隠れたシンボルとした、古代日本最大の渡来民族がいます。
そうです、ユダヤ系渡来人といわれる秦氏です。
これらのことを踏まえ考察すると、秦王国は多くの古代ユダヤ系民族を内に秘めた国であり、中国統一後その中から、先に徐福が同じユダヤ系文化のルーツをもつ民族と共に直接日本に、そして秦帝国が滅亡した後、同じく秦帝国内に残ったユダヤの系ルーツを持つ秦氏が朝鮮半島を経由して日本に渡来したと考えられるわけです。
もしかしたら、失われた10氏族の民から離散したユダヤの民も、秦王国が台頭するにつれ秦王国をめざし、だんだんと合流していったなんて可能性もありますね。
そして、もう1つ、徐福がユダヤ系の人物であると思われる理由に、先に述べた徐副率いる集団をルーツとする物部氏の存在があります。
古代の豪族、物部氏は、587年蘇我氏との闘いに破れ、その後歴史の舞台から姿を消します。
それまで、物部氏は日本の神道祭祀を取りしきる唯一の豪族として君臨していました。
神道といえば、八百万の神々をまつる多神教ですが、実はもともと物部氏が信仰していた神道である物部神道は唯一絶対神を崇拝する宗教だったというのです。。
現代、元伊勢の名で名高い丹後一ノ宮の籠神社。その籠神社の宮司を代々勤めてきたのは物部氏と同族と扱われている、祭祀を一手に行ってきた部族、海部氏と言う部族だと言われています。
(ただし、物部氏と同族として扱われているのも、何か裏があると思われます・・・)
海部氏は、物部氏が没落した後も極秘伝という形で物部神道を継承してきたと言います。
その中で、重要なカギとなる「多次元同時存在の法則」と言う概念があるそうです。
この法則は、「神は、数々の名を用い、数々の次元にて同時に存在する」と言う概念で、ようは、それぞれの神は名前こそ違うものの、すべて1つの神であると言う絶対的唯一神崇拝を示唆する法則なのです。
籠神社本殿及び、籠神社の奥宮にあった石碑と、籠神社の絵馬。双方にダビデの星と同じ六芒星が。現在この石碑と絵馬の設置及び使用を廃止している。
絶対的唯一神を崇拝するといえば、ユダヤ、キリスト、イスラム教がその典型です。
これら3大宗教が崇拝する神は、教えこそ違えど旧約聖書でこの世界を作ったとされるユダヤの神がルーツなのです。
「日ユ同姐論」を追いかけて、旧約聖書の時代からユダヤ民族の足跡に思いをめぐらせてきましたが、日本人のルーツをこれらの事だけで考えられるわけではもちろん無く、日本人のルーツにはさらに多様な民族のせめぎ合いがあったことは間違いありません。
「日ユ同姐論」はあくまでも日本人のルーツを考えるための一部でしかありません。
ただし、このことが導く先には、もっとスケールの大きい壮大なテーマが待っています。
すべてはまだまだ学術的根拠の無いものであります。しかしながら、我々の世界ではこのような謎やミステリーがこれからもまだまだ生まれてきます。
少しでも皆様にそのことを楽しんでいただけたら幸いです。